『ありもしない全体に』

この四角く区切られた世界は私がつくるものであり、私の集中力は四角の中へとむかうが意識は外へとむかう。
私の場合、経験や感情や記憶など抽象的な感覚を私のフィルターを通し具体化する、そしてそのとき意識は過去や世界にいってしまっている。
なので身体と意識がそれぞれ内と外の別方向へ向かい、矛盾した現象が一瞬成り立つ。
その瞬間を大切にしている。
私の力で組み立てられる可能な範囲はこの四角の内側が限界なのだ、内弁慶な状態なのだ。それ故に絵画という形式は私にとって好都合なものになっている。
あんなふうに、こんな感じの、というふうに自分のお気に入りなものを思い浮かべて、たくさんの中から好きなものをいくつか選択しながら生活しているのだけど、すべてならべてみても、とても貧弱な世界だったりするので私を驚かせることがある。それは自分でも可愛らしいと思うし、そして野暮ったいとも反省したりする。描いているのはもちろんフレームの中だけの出来事になるが、時間的な空間においては外の世界から自分を見つめている。結局のところ、私の作品はフレームの外の世界を補完する一場面でしかない。
東京で普通にくらすというのが当然となった今、新たな課題がある。テンションがあがらないのだ。こんな田舎でぼんやり暮していると、ほんとうにダメな人間になるなあ、と。そして、フレームはフレームでしかない。平凡なものを切り取ったとしてもそれはただの平凡であり特別にはならないことや、しかしそれでも生きていかなくてはならないという試練めいたことが冷静にわかってきている。わたしは大人びてしまった。
東京という場所は多くの人にとって特別だ。ある人は時に情報が邪魔になるといっていた。純粋に制作できないということなのだろうか?私にとって東京で生活することはそれ自体が情報で、情報が邪魔になることがまだ想像もできないし、むしろ情報がなければ制作もままならない。しかし、いってみれば東京だって世界からみれば田舎だし、ここでくらしている私は東京という囲いのなかではりめぐらされた電波でしか世界を知れない。朝8時、JR新宿駅の京王線乗り換え地下通路に私はいる。こんなにも多くのひとがシステムにのっかってながれてゆくのがわかる。前方左側に前から来る人を眺めながら、後ろから押されながら。私ものっかろう。あるのはだれかがつくってくれたシステムだけでいい。或いは自分でつくったシステムに飽きるまで従えばいいと思う。テクストはいらない。もしも覆いふりかかってくるものが恐怖という不安だけだったなら、みないようにしよう。気にせずつきすすもう。そのために、私はまずはなにか職につこう。そして明るくいきていこう。

2004ねん4がつ13にち
しまはつき


作品名『ちいさな世界とちいさな窓、暗くなるまで』
    2004
    紙にクレヨン、フォトショップによるデジタル合成